昭和52年10月18日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ、信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
よく皆んなが、神様に喜んで頂く様な信心を、させて頂きたいというふうに申します。神様に喜んで頂く様な信心とは、どう言う事を言うのだろうかと。改めて分からせて頂かなければなりません。第一熱心な信心です。段々素晴らしいものを持っておっても、熱がなかったら本当な事じゃない。ほんならどんなに熱心であっても、焦点を間違えておる熱心さではまた同じ事が言える。焦点を間違えずいわゆる目的を間違えずに、そしていて熱心に信心をさせて貰う。
神様が喜んで下さるというのは、先ずそこから出発するんだと思うですね。間違いのない焦点同時に熱心。昨日この大祭に、あっちこっちから、若い青年教師の方達がお参りしておりまして、一日泊めて貰うて、昨日まぁ信心の研修をしたい。またお話を聞きたいと言っておりましたから、なかなか時間が、昨日はございませんでしたから、末永先生を中心に、色々信心の研修をしておりました。それで私がちょっとまぁ三四十分出らせて頂いたんですけれども。
あの本当にその信心を求める姿勢と言うものが、まぁ嬉しいと思います。その中で例えば末永先生が、あちらでまぁ人がたまがる様なおかげを頂いておる。その元がどこにあるかと。今日は皆さん末永先生の話を、昨日もお説教の中で聞いたし、ま今日も聞かれた事だろうと思うが、どこにその焦点が置かれておれば、あれだけのほんならおかげを頂く事になるのであるかと。
それを一人ひとり、聞かせて頂いたんですけれども、あの神様を親先生を信じて疑わないと言う事だろうと思います。第一あのブラジルのビリグイと言う所は、まぁこれは本部の前の布教部長先生に言わせると、とてもビリグイと言う所には、行ける所じゃないと、初めてそう断言しておられるほど、自分も本部から言われて、視察に行っておられるです。そういうところに例えば、親先生が南米布教と言う事を頂いて、自分もその気になって、行く事を決めた。
何の手掛かりも何の当てもなしにやらせて頂いた。しかも自分一人ではない。家内子供を連れてから、もういうなら命を託しての海外布教に、まぁ旅立って行った。これなんかはもう親先生の一言、神様の働きを信じておらなければ出来ることではない。第一おかげの頂けれる元がそこにあった。次の人は結局合楽理念をマスターして、合楽理念のまぁ行者であると言う事。海外布教は合楽理念をもってする他はないと言われるほどしに、合楽理念を地で行かれる。
次には親先生を頂いておられる、頂き方と言うものが素晴らしいと。まぁ色々発表しておりましたけれども、その三人のそのまぁ三つの事がそうだろうなと。そこでほんなら親先生、親先生と言う事においては、人後に落ちないという人が、合楽にもあると思うのです。親先生を信じておるという人。また神様の働きは自分には現せてないけれども、合楽におかげを頂いておったら、神様の働きの一分一厘間違いのない事よと言う事を、分かると言う事は神様を信じておる。
合楽のまぁ暫く信心をした人ならば神様の働きを。自分たちの信心はまぁ疎かですから、頂けんけれども、親先生の周囲にはあれだけ間違いのない神様の働きがあっておると言う事を、信じておる人もまた沢山あろうとこう思う。いうならば文男先生じゃないけれども、合楽理念を説明せろと言うても出来んけれども、私の言うておる事行うておる事が、そのまま合楽理念だと言ったとこう言うんです。まそれもまぁ沢山ざらにはなかろうと思うけれども、大体合楽の流儀と言うか。
合楽の流儀を体得してる人は、先ず合楽理念を体しておる人達だと思うんです。それけどもそんならそのまぁ鮮やかなというか。おかげを現しておるという人は少ない。合楽理念はもう百姓をもってする他はない。いや百姓は合楽理念をもってする他はない。商売は合楽理念をもってする他はない。もう一切の事が合楽理念をもってする他はないという。ほんなら、言えるほどしのおかげを受けておる人はない。ここでは合楽理念でこう説いてあるけれども、なかなかそうはいかんと言うのが多いとこう思うのです。
昨日は合楽会でしたから、昨日は合楽の方達が沢山集まっておられました。まぁその何か話し合いがあっておったらしい。末永先生が見えておる間に一遍、末永先生のお話を聞こうと。そしてまぁ先生と一緒に、まぁ何ち言うですかね、まぁパーティのようなものを開かせて貰おうと、と言う事でございましたから、昨日はそういう準備がしてきてございました。それでまぁ色々お御馳走を頂かせてもらいながら、まぁ話しておった事でございますけれども。
半ばから公子さんが色々御用をしておりましたが、もう終わったからほんならあんたも入りなさいと言うて、公子さんの話をそれから中心に聞かせてもらった。もうただ本当に、感動するばかりであった。もうあちらに行ってもうとにかく帰りたい。もう帰りたいの一念でもう死んでも良いから、日本についたらもう死んででも良いから帰りたい。それは、なかなか許されんから。もうこれ以上の悪口雑言はあるまいというぐらいに、先生に言うたち。それも二日三日じゃない、ずうっとそれをいい続けたと。
そして心にこげな事を言うたり、こんな事をしたりしてはと、思いながらそれが言わずにはおれなかった。ならお前がそんなに言うごたるなら帰れと。けれども子供は置いて行けち言うたげな。いや子供を置いては帰りきらんと言う事。それで段々まぁおかげ頂いておるうちにです。とにかくどんなに言うても、どんなに言うても黙って行かれておるうちに、不思議な不思議な働きが起こってきて、私の心の上にです。
もうブラジルの土になっても良いという腹が出来た所から、もう大変おかげを頂いたという、それを具体的に、まぁ色々なそのこう言う所も通った、あぁ言う所も通ったという話をしておりました。だから合楽理念をマスターすると言うておっても、知っておるというてもです。本当に黙って治めると言う様な事が、地に出来ておると言う事そう言う所が、ほんなら合楽理念は、黙って治めると言う様な事をしきりに言うが、果たしてどれだけ、自分達に出来ておるかと。
昨日私は久保山のお母さんの五十日祭。大体は今日ですけれども、一日早めに昨日おかげ頂いて、丁度午前中のお祭りでしたけれども、午後になって二時か三時ぐらいまで、御直会を頂いておりましたが、かかりましたでしょうか。こらお神酒が入りましたから、暫く休ませて頂いて、足を揉んでもらってるうちに眠ってしまってた。そして目が覚めた時には、もう三時半だった。
もう言うならここを、私は四時まで努めますから、もうこのままもうここで出て来んでもいいような感じがしましたけれども、やっぱり三十分間でも、奉仕させて貰おう。そして青年教師の方達の研修があっておるなら、まぁ一口でも話させて貰おうと思うて、あの用意させて頂いておったら、神様から頂きますことが、あの、蛙がね、かわいらしい人形さんば、おんぶしておるところを頂いた。ですからその私達がですね、本当にあの神様が見てお出でと言う事、聞いてお出でという事を知らなきゃいけない。
もうこれは随分前、私が共励会の時にお話に行っておった時分ですから福岡に。それで夜通しお話をしておりました。そして一番電車にはもう一時間もあるから。ほんならちょいとでも横にならせて貰おうかと言うて、あの横にならせて頂いたら、もうぐっすり眠ってしまっておる。そしてあの一番電車の通る音が、ゴーっと聞こえて参りましたから。こら、しもうたと思ったけれども、眠うして眠うして、目が痛いごとあるもんですから、そのまま、またうとうと休んどった。
そしたら三代金光様のお言葉で、「神様が見てお出ででございます」と言う、大変厳しいい口調で頂いた。夕べ眠ってないと言う事も、夕べ一生懸命お話をして、もう一時間しか時間がないと言う事も、そして眠って今あんたが眠たくてたまらんと言う事も、神様が知ってお出でである、見てお出でであると言う事なんです。だから神様が見ておって下さるのならば。神様が修行として受けておって下さる事なんですから、やっぱそこに元気な心を出さんわけにはいかない。いやおのずと出てくる。
それからまぁ起き上がってから、二番の電車で帰って来た事がございましたがです。いわゆる神様が見てお出でであるから、聞いてお出でであるからという。ここでは一つひと踏ん張りするとが、ほんなこつばってんと言うて、それをひと踏ん張り仕切るか、仕切らないかと言う所に、鮮やかなおかげいわば普通のおかげ、いやおかげが頂けんというふうに、もう別れ道である。まぁ蛙がそのかわいらしい人形さんば、こう背中合わせの様にしておると言う事は。
蛙と言う事はまぁいうなら、私共のいやな事だと困った事だと、または怖い事だと。もう私の一番好かん事が起きて来ると言う様な事でもです。こげなこっじゃいかん事は分かってるけれども。こげなこっじゃいかん事は分かっとるけれどもと、何時も思うておるような信心では、それが貯まり貯まって、ほんなら怖い事にもなりゃ、嫌な事にもなって来るんだと。そう言う所をです例えばほんなら、大事にしていく人が言うならばおかげが受けられると言う事。
そういう意味で、あの末永先生が、ここで修行中の時から。そう言う所を大事にして言った様に思う。先生がおかげを頂いていっておると言う事は、先ず何と言うても、矢野先生が大祭が済んでから、帰りなさる時に私も裏で、あの寝巻きに変えて休ませて貰おうとしている所へ、入って見えました。それでとにかくあんたがたん弟子は、日本一ばいち。いいえそんな事はありませんけどもち言うたら。いいやもうあげな弟子はおらんち言う。あぁたあげな良か弟子をもってと。
もうあれしこ親先生、親先生ち言うなら、絶対おかげ頂くのち言うて、その言うておられる。甘木流から言うてそうでしょうね。親先生親先生ちあれしこ言うならば、おかげ頂かんはずはないと言うのです。だからその親先生、親先生と言う人は、ほんなら合楽には、沢山おるだろうと思う。又はほんなら神様の働きを信じておる、親先生を信じておるという人も沢山あるけども、愈々の時に果たして言うならばまだ分からない、南米の地にほんなら、しかも単独布教と申しましょうかね。
もう新地布教と同じ様な布教に出らせて貰う。しかも家内子供を引き連れて行けれるというその元気な心。同時にもう本当に末永さん、あんたがブラジルにやらせて頂く前に、この合楽理念が確立しておったと言う事は、これは素晴らしい事だよと、まだここにおるちょっと前に、合楽理念が発表されたんですから。この合楽理念が発表されたが、この合楽理念を引っ下げてさえ行きゃ、どこに行ったっちゃおかげ頂くばいと言うて、その出しておりましたんですから。
もう合楽理念を本当に行の上に現しての、言うなら布教であった。どんなに来る日も来る日もお参りがなかっても。如何に家内に泣き付かれても。黙ってそのおられるというだけの信心が出来ておったと。そこに神様がおかげを下さらなければおれない働きというものが起こってきた。そこから、肌色の違う言うならば外人の方達が、次から次と助かるようなお繰り合わせを頂いた。私は人が助かると言う事はね、また助けると言う事は、自分自身がそういう信心を頂いたと言う事が、先ず神様のお喜びです。
その神様のお喜びが次の言うならば、鮮やかなおかげになって現れてくる。そこにならまぁだ言葉もろくに分からない人達が、打ち込んで御用も出来る。打ち込んで言うならば先生が手足にもならせて頂くと言う様な、若い人達が次から次と出来ていっておる。まぁだ半年足らずの信心にも拘らず、そういう鮮やかなおかげが現れておると言う事は。結局神様に喜んで頂く信心とは、そう言う様な事。
そう言う全てを知っております、分かっておりますという人は、合楽には沢山あるけれども、なら愈々言うならば、もう眠うして応えんという時にです。眠うして応えんというだけじゃない。ここはこうする事が本当だという時です。もう夕べ寝とらやった事は、神様がご承知じゃからと言った様な気持ちで寝るのと。神様が見てお出でであると言う事を、ほんなら神様が見ておって頂くならば、きついけれども眠たいけれどもと、おかげの頂くほうへ自分が行動していくと言う生き方が、相まって出来る信心にです。
信心がもう言うならば、楽しゅう有難うなって来ると言う事になるだろう。神様が喜んで頂くという信心。私はこの六十一節をずっと読み下させて頂いて。結局は神様に喜んで頂く信心という事だと思うのです。ですからここで少しばかりはです。人が人偏なら私は行人偏と言うように、ちょっとこの手間をしただけ。ノの字を一つ書いただけ人とは違ったもの。そこに信心の言うならば進展が、誰よりも早いことになる。
言うならば尽きぬおかげをです、金光大神がして下さっておっても、それを尽きぬおかげにしていけれると言う事が、神様のお喜び下さる事だと思う。尽きぬおかげにしていけれる、まぁこれからどうなるか、例えばブラジルの場合でも分かりませんけれども、この調子で行きゃ広がりに広がって、愈々一粒万倍のおかげにもなっていくだろうと。その一粒万倍のその一粒そのものが、生きたものでなからなければ芽は出らんと言う事である。合楽理念をどんなにマスターしとっても黙って治めるその一つも出来ない。
愈々という時に。ここはこうする事が本当だと言う事が分かっておる方へ、ちょっと自分の心身体を動かされるだけの、言うなら信心がなされなければならない。ここで神様を信ずるとか、親先生を信ずるとか合楽理念を、一通り知っておるとか。そして成程二言目には親先生と、親先生親先生をほんなら、末永先生に負けず劣らず、親先生と言うておる人は、幾らもあるけれどもです。もう最後の一点の所が違うと言う事。そこに言うならばその言うなら、自分の嫌な事が次々と起こってくると言った様な事がです。
所謂おかげを受けると、受けないとの生き方と言うものは、もう何時も背中合わせにあると言う事である。そこんところを大事にしていけれる信心。そういう信心がです。の元に人が助かっていく。それが神様のお礼になると言う事は、神様がお喜び下さると言う事。本当に神様に喜んで頂く信心をしたい。昨日椛目の宮崎さんが、お届けしておられました。あちらのご信者さんが、ある教会にお参りをしておられる。
合楽の御大祭記念祭と言うので、信者達が五六名でどうでんこうでん、いっちょ合楽におかげ頂きまっしょじゃんのと言うてから、あの先生にお届けをした。そしたらそこの奥さんが出て来なはった。そしてから合楽教会からは何時でん、一人しか参って貰わんから、あんた達は一人参りなさいち。だから他の五人の人は参りなさんなち言うてから、偉い剣幕で言わっしゃった。それを宮崎さんに今日は、あぁた五六名でお参りするごつしとったばってん、先生こげん言いよりなさるから、奥さんが言いなさったげなけん。
もう本当残念でたまらんと言うて、その言よんなはる。そりけん私だんな今度こっそりと話し合ってから、もう先生にゃ言わんなこっそりと参ろうじゃんのと、言いよるち。もう絶対こりゃもう合楽の信者になるですねこげんとは。こげん時にですお互いがそれこそ、大きく豊かに。言えれる先生であり教会でなからなければね、そげな言うならこまい事言いよったんじゃ、かえって信者は先生の心から、教会から離れていくでしょうね。他所のご信者さん方がここへお参りをされる。みんなそういう感じです。
始めの間はこう喜びよりなさるけれども、段々そんなら先生おかげの泉を読んで下さい、新聞を読んで下さいち持って行くごとなると腹かかっしゃる。そるけん今度はこそっと参ってくるごつなる。そすともう親教会には参ろうごつなかごつなってくる。是はその参るとか参らないとかじゃない、おかげの全てがそうだとこう思うのです。とにかく大きく豊かにと言うそのいうならば、大地の心と言う様なものがです。
所謂黙って治めれる信心が出来ない限り、私は本当に良いものはおえないと思う。そう言う所をほんなら、合楽理念は何故、そうしなければならないかと言う事を説くのですから。分かっただけではなくて、そういう時におかげが向こうのほうから、外れて行くと言うのじゃなくて、おかげがこちらへ集まって来る様な働きを、日頃現していく。そういう信心が、私は神様に喜んで頂く信心だと思います。
神様に喜んでいただく信心。みんながそれを言う。どういう信心すりゃ神様が喜んで下さるかと。と言う事をほんならこういう信心が、神様に喜んで頂く信心だと言う事を、まぁ末永先生の信心からです。まぁ聞いて頂きました。はぁ自分なこう言う所が、神様を何時もがっかりさせよるなと。と言う様な風に一つ分からせて頂いて、神様に喜んで頂けれる信者に、お取立て頂かなければならんと思うですね。
どうぞ。